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夜のワンちゃんとの散歩(ベテルギュウス)

我が家のワンちゃんは、社会性が無く、他のワンちゃんをみると吠えかかるため、他のワンちゃんが散歩していない夜に散歩することにしています。天気の良い夜には、星空が見え、自分が古い時代の人間に帰ったような気持になります。というのは、夜空の多くの星たち(恒星)は、空に張り付いているように感じてしまいます。張り付いた空が回っているように感ずるのは、人間として当たり前の感覚のように思います。しかし、中に張り付いていない結構明るい星があります。金星や木星、土星など、そして月です。そのような手がかりの中から天空の姿や論理を解明した過去の人々の偉業はすばらしいと思っております。

中学生の時のことです。冬の夜空を天体望遠鏡で見るために、科学クラブの先生の招集のもと、2.6kmの夜道を歩いて学校に出かけました。夜空は晴れており、満天の星空が空にありました。その中で、ひときわ目立つオリオン座があり、その三ツ星の斜め下にオリオン座大星雲がある、ということで、ファインダーをのぞき必死に探しましたが、一向に主鏡に入りません。寒くて寒くて凍えそうだったため、先生も含めてクラブ仲間は学校に入ってしまったのです。私はなんとか踏みとどまり探し続け、間もなくオリオン座大星雲をついにとらえたのです。(長く一緒に馬頭暗黒星雲も見たと信じていたのですが、最近いろいろ調べたところ、眼視では見えないと書かれており、長く勘違いしていたのだと分かりました。)私は大声で先生たちを呼び、大きな感動を得ました。

その時から、オリオンの大ファンになったのです。その時は(ちょうど60年前です。)オリオン座のα星(星座の中で最も明るい星)は、左上のベテルギュウスで、β星が右下のリゲルで、共に1等星でした。しかし、今、ワンちゃんと散歩しながら時折晴れた夜に、オリオンを見ると、明らかにベテルギュウスの光度が暗くなっているのが分かります。右側の当時γ星(2等星)よりも暗くなっている感じがします。赤いベテルギュウスに何があったのでしょうか。ベテルギュウスまでの距離は700光年といいますから、今から700年前に起きたことは確かですが、年老いた星ということで、恒星の最後に向かっているのでしょうか。元々変光星だったそうですが、これほどの光度の減少はこれまで観測されたことはなかったようです。

宇宙についてまだ全く未知の時代には、天空の変化(例えば彗星の出現)は、災いの前兆と言われたりしました。しかし、天文学の世界では、ベテルギュウスは近未来(10万年以内)に爆発することが予測されています。それにしても、大きな恒星のこれほどの光度の減少に出会ったことは、幸運?と言えるのかどうかは不明ですが、宇宙の不可思議さに老いた身ながらも心ひかれ、あちこちをひもといているところです。一切、他を寄せ付けないため、暗くなってからしか散歩に出れない我が家のワンちゃんに心から感謝しています。

祖父について

祖父とは、実際の血はつながっていなかった(祖父母には子どもができず、祖母の姉の子を養子にし、それが私の母でした。私の母が小さかった時,遊びにつれていったいったところ、祖父から離れようとしなかったためとのことです。)のですが、私を大変可愛がってくれました。祖父は無口で、曲がったことが嫌いで、タバコ・バクチなどを嫌っておりました。私なども変なことをして、祖父に何度かぶっ飛ばされたことがあります。祖父は根っからのお百姓さんで、小さな田んぼ(3反3畝)と広くない畑を慈しむように耕し、作物をこしらえておりました。祖父と一緒に畑まで肥え桶(糞尿)を担いでいったこともあります。その重さは半端でありませんでした。米作りは私の父の力も借りたと思うのですが、いい米を我が家で食べる分と少しの供出分を作っておりました。長芋の作り方も一級で全く傷をつけずに掘り出し、自慢の一つだったようです。秋には、きのこを取りに山に出かけ、巨大な鳶ダケをよくとってきたり、その時出会ったまむしなども家の中で乾燥させてもおりました。祖父はその場所を誰にも教えず亡くなりました。(これは村のきのこ取りの慣習です。)祖父は無類の酒好きで、祖母は料理と酒造りの名手でした。そうした意味では、祖父は幸せだったのではないでしょうか。

祖父は明治25年産まれで、名前は兵吉(ひょうきち)で、明治時代に産まれたことを色濃く残していたと思います。若い時、朝鮮出兵で朝鮮に渡ったのですが、「蛮族から朝鮮の人たちを守った。」と、当時の国家の言い分をそのままに考えていたようです。教師だった父が村の学校から転勤し、町の小学校に移ったのを契機に、昭和40年(1965年)に町に引っ越しました。祖父の田畑の多くは親戚に譲り、残った場所だけ、祖父はバスで通ってわずかな作物を作っておりました。無口で人付き合いもあまりよくなかった(実際は多くの人に好かれていたようです。)祖父ですが、やはり寂しかったようです。それからおよそ6年後に79歳で亡くなりました。祖父の具合が悪いというので、東京(その時は私は東京に住んでいました。)から帰ったのですが、嬉しかったようで、「進、死ぬところだ。」といって、ビールを少し飲みました。それから1ヶ月後くらい後に亡くなりました。その死にも立ち会わず、今でも申し訳ないと思っています。

祖父の兄弟は跡継ぎを残して、皆北海道にわたりました。その中で一人だけ成功し、網走に近い場所でホテルをやっていた甥がおりました。その甥の方が、時々秋田にやってきて祖父と語りあっておりました。その時は、表情の少なかった祖父も嬉しそうでした。残念ながら、祖父を北海道に連れていくことは出来なかったのですが、その後、父が甥御さんと交流し、何度か行き来をしたのは、祖父への供養でもあるのではないでしょうか。そのホテルは甥の方が亡くなった後に閉鎖し、甥の子どもさんたちは札幌で暮らしております。甥の子どもさんたちは、人がうらやむほど仲良しでしたが、長男が昨年亡くなり(私と同い年でした。)、家族、姉妹は悲嘆にくれておりますが、家族の結びつきの素晴らしさを教えてくれました。祖父の係累は、今もしっかりと北海道に根を張って暮らしております。

祖父の人生については知っていることは少ないのですが、生を受け、亡くなっていく人間の生業(なりわい)のようなものを教えてくれたと思っています。

保育士さんのすごさに感動

秋田も寒くなりました。寒くなった今日(2019年10月9日)、グリーンローズ保育園とオリブ園の合同の避難訓練がありました。火災想定の避難だったので、急いで外に出て、近くの公園までの避難でした。保育園は、0、1、2才児をつれて、公園に避難でしたが、外気の寒さに合わせて、上着や靴下をひっくるめて持参し、寒い感じのため、公園にて上着を着せ、靴下をはかせておりました。その中の保育士さんの一人が、靴下の匂いを嗅いでおりました。思わず「どうして靴下の匂いを嗅いだんですか?」と聞きましたところ、「みんなのを合わせて持ってきたので、誰のかが分からなくて、匂いを嗅いだんです。」との答えが返って来ました。思わず驚愕してしまいました。靴下の匂いからその赤ちゃんをマッチングさせる、すごい技と思ってしまいました。それは保育士さんにとっては当たり前のことなのかもしれませんが、プロを感じさせられました。こうした技がいつの間にか自然に身についたのでしょうか?それとも意図的に学習していたのでしょうか?。後で聞いてみたいものです。

私たち(私は言語聴覚士ですが)も子どもを相手にし、こうしたプロを感じさせるものはなんだろうと考えさせられてしまいました。私は、子どもたちと長くつきあってきて、子どもたちがこちらに注目する手立てをいつも考えてきました。その一番は何といっても、子どもをしっかり見ることだと思うようになりました。そうすると、子どもたちはこちらに関心を間違いなく持ちます。多くの大人の人たちは通常、子どもをしっかり見ることは、なぜか少ないように思います。そのため、子どもはよく見る大人をめずらしく思い、「珍しい人がいる。」と考え、自然に関心をもつのではと、思うようになりました。これがプロの技といえるかどうかは不明ですが、子どもに関心をもたれるための技として、これから子どもたちと関わる若い方々に伝えたいと思います。

しかし、子どもたちの中には、見られることを嫌がる(こわがる、避ける等々)の子どもたちもおります。子どもを見つめると、一瞬でこの子どもたちについて理解できます。その時は、ただちに見ないようにし、かたわらに何気なく居ることが子どもの関心を呼びます。これも一つの技ではあると思います。

これらは、誰でも分かることなのかもしれませんが、それぞれの技に様々なバリエーションもあることも付け加え、若い人たちに伝えたいと思っています。

父について

父について
私の父親について、小さいときの記憶がありません。小学校に入ったら、そこの小学校の教師をしていたのです。あだ名が「ごりら」だと知ったのは学校に入ってからです。体型や顔貌がどことなく類人猿に似ていたからだと思われます。私もその遺伝子を受け継いだと思っています。父は私が小学4年生になる時に移動していきました。それまでの父は、けっこうな遊び人で、他の家でなかなかやらなかったこと(ストーブ、テーブルなど)を家に導入し、けっこう喜んでおりました。いろり、こたつが主流だった当時の家の暖をとる形に、薪ストーブを入れたのです。また、食事はお膳が主流だった時に、自分で作った丸いテーブルでの食事になりました。また、映画やパチンコ(当時、村にも映画館やパチンコ店がありました。残念ながら食堂はありませんでした。)もやっていたようです。

私は父にあまり叱られたりしたことはなかったのですが、一つだけ強力に記憶に残っていることがあります。私が小学1年生の時、小学校の高学年を中心とした万引き集団が作られ、私も入りました(自分から入ったのか誘われたのかはよく覚えていません。)。村にある小さな3軒ほどの駄菓子屋を標的にして行われました。ある時一網打尽につかまったのです。父としてみれば、同じ学校の教師である自分の息子がその中に入っていたのはショックだったと思います。毎晩のように我が家に万引き集団の保護者が集まり、いくら盗ったかとか、弁償のこと、どうやって謝るか等の話し合いだったようでした。 ある日、保護者たちが私たちを連れて、その店に謝りにいきました。みんな並び、父は家の真ん中のいろりのそばに座っていました。一人ずつ謝るのです。私の右となりの小学3年生が最初に謝り始めました。しかし、その声が絞り出すような声になっていたのです。私は思わずプッと吹き出してしまったのです(本当に不謹慎きわまりなかったのです。)。その次の瞬間、父はいろりにあった鉄の火箸で、私の手を思いっきり(のように感じました)たたいたのです。私はあまりの痛さに泣きました。泣きながら謝ったのです。その後、その時の父の怒りと父の恥ずかしさが、その火箸に込められたのだと思うようになりました。それ以降、私はそうしたことに手を染めたことはありません。学生時代にいろいろな人に遊び半分だとは思うのですが、万引きの話を聞いたりしましたが、私は全く出来ませんでした。そうして生きてきた自分は、父の想いが込められたあの火箸に感謝しています。その火箸がなくても多くの人は万引きなどしないと思うのですが……。その後、父が亡くなるまで、一緒に飲んだ時でも一度もそのことについて聞いたことはありません。父も何にも語らず逝ってしまいました。

父は、私が小学4年生の時から他の学校に移動(39歳でしたが教頭として赴任)した時から、父の生活はがらりと変わりました。ほとんど学校に入り浸りで、「ことば」の教育に心血を注いだようです。遠藤熊吉先生が、郷里に「ことば」の教育を導入し、「共通語教育」として実践されたものを、その後輩の先生方が育てていたのでした。その学校(西成瀬小学校=父が亡くなった年に廃校となりました。)に移動し恐るべき感化を受け、父の生涯の原点となったのです。しかし、文部省や教育委員会との軋轢(文部省があまり推奨しない学校の教科書を使ったりした。)などの中で、その後、万年教頭で退職まで過ごしました。私は父に「それは勲章(変ですが)でしょう。」とよく言ったものです。
父はガリ版きり(もう死語となりましたが)が上手(書道の先生でもありましたので)で、学校便りをガリきりで退職するまで続けました。その学校便りをまとめ、自分が亡くなる数ヶ月前に出版しました。そこには当時の学校の状況が本当にリアルに表されています。「野の学校の歩み」です。子どもたちの作文やら学校の状況など、また教育の内容などもつぶさに感じられるものとなっています。
母は、長期入院していた病院で見舞いにいった私を屋上に連れ出し、「あまり父さんに心配かけるな」と言ったのを覚えています。ちょうど、私の沖縄行きが決まっていて(結局は行かなかったのですが)そのことを言ったのだと思います。その年の12月に母は亡くなり(51才)、心配だけさせてしまった思いがあります。父は老いてからよく一緒に飲む機会や、一緒に旅する機会もあり、それなりに父の喜ぶ顔が見られたと思っています。
父の生涯は多くのことがあったに違いないのですが、一本の筋が通っていたのではないかと思っています。