後藤進

昭和21年(1946年)生まれ。秋田県雄勝郡東成瀬村田子内字滝ノ沢下村出身です。子ども時代、高校まで同じ村に住み、大学一年の時に、当時の平鹿郡十文字町(現横手市十文字町)に引越ししました。高校受験の前の日に、同級生が私の受験のための鉛筆を削ってくれたことが忘れられません。

私は大学で今の仕事に関わる勉強は全くしてきませんでした。それだけでなく、その時代の流れの中で大学を中退し、運動具屋の店員、本屋の店員をしたりしていました。子どもが大好きだったのですが、子どもとのやりとりできる仕事についてはあきらめていました。そんな時にこのグリーンローズの創設者である片桐格先生に声をかけられ、ルーテル愛児幼稚園「ことば」の教室(勤めて1ヶ月後に社会福祉法人グリーンローズ「ことば」の教室になりました。)に勤めるようになりました。

勤めて衝撃を受けたことが2つありました。ひとつはあまりに自分が無知であるということでした。もうひとつは、「障害」故に、学齢期を過ぎていたのにも関わらず、学籍を持たない子どもたちが通っていたことです。自分の無知はさておいて、なぜ?という思いがかけめぐりました。これは「差別」以外のなにものでもない、と思ったのです。もし、なまじっかな知識があれば、「障害」のための就学延期・就学免除という制度があり、親の義務を緩和する制度だからなどと考え、違和感があっても受入れたかもしれません。また、学校の現状等を知っていたら、学校がないのだから仕方がないと思っていたかもしれません。しかし、そうした無知故に「差別」ということばが心の底に打ち込まれました。それはいろいろな知識を得ても変わらぬ1本の杭として心に打ち込まれたままです。

昭和52年(1977年)に国立聴力言語障害センター附属聴能言語専門職員養成所(現国立障害者リハビリテーション学院言語聴覚学科の前身)で1年間の研修で勉強させてもらいました。それで無知が解消するような生易しい世界ではないのですが、新しい言語聴覚士(制度化されるまでその後20年も時間がかかりましたが。1997年言語聴覚士法制定 国家資格となる。)という世界に1歩を踏み入れたのでした。

ルーテル愛児幼稚園は、早くから統合保育を目指しておりました。キリスト教からくる博愛や療育的観点が主立ったかもしれません。しかし、その統合保育は、子どもたちを育てていく恒久的な理念となっていくのです。「支援を必要としている子どもたちとその家族とのより早期の出会い」「共に育つ」が、社会福祉法人グリーンローズの理念となっていきました。

昭和54年(1979年)養護学校が義務化されました。「養護学校の義務化」とはどういうことなのかと自問しました。義務教育を受けさせる義務であるはずなのに、「養護学校の義務」とは?私の心の奥に打ち込まれた「差別」の杭が、私の心を揺さぶりました。それでも、教育の場を準備したわけですが、実に一般の子どもたち、盲ろうの子どもたちが義務化されてから、実に30数年も遅れたのです。そしてなぜ一般の学校に包摂された義務化をしなかったのか、次々と疑問がわき起こり、怒りで一杯になりました。その後にくるのは子どもたちに対する「選別」ということは明らかでした。

 

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