新型コロナのいる世界

新型コロナウイルスの席巻は、この世界を変えようとするかのようです。社会の人間の出会い方すべてを変えようとしているかのようです。対策として出されている「密閉・密集・密接への禁止」など、人間の生き方そのものにかかわってくるのではないでしょうか。武漢発新型コロナウイルスは、明らかに今の人間の生活に適合した感染の仕方のように思われます。感染した相手を、時には死に至らしめるのに、一方では不顕性で症状もなく、他の人間に感染していくという恐るべき性質をもっていると思われます。これは新たな脅威とも言えると思います。これまでの世界史が物語るように、強毒性のものであれば激しく闘わなければならず、多くの犠牲者を出しながら収束していきました。今回の新型コロナウイルスもまたそのようになるのでしょうか。最近起きた、サーズ(SARS 2002~2003年 終息宣言2003年7月)、新型インフルエンザ(2009年 終息宣言2010年8月)、マーズ(MERS 2012〜現在 終息宣言が出ていない)、等なんとか乗り越えてきた経緯があります。しかし今回の新型コロナほど世界を巻き込んだのは、スペインかぜ(1918〜1920年)以来ではないでしょうか。

世界は大きく変わりつつあります。あらゆる場面でのグローバル化の人間の活動を抑えているかのようです。人類が発生したといわれるアフリカ熱帯地方の気候は、あらゆる生物が、微生物も含めて複雑に共生しあい、人間が道具をもち、補食の最上位になっても人間のみの増加は抑えられたといわれています。人間がアフリカを出て移った温帯地方は、非常に単純な世界で、気候からの防衛・道具の発明等により、一気に人口増加が起き、あらゆる大型補食獣の絶滅が起き、人間世界となっていった、と(「疫病と世界史」ウィリアム・H・マクニール)。しかし、時に、目に見えない微生物群・ウイルス群などの襲来は、人間にとっての大きな脅威でした。科学の進歩は見えないものを見えるようにし、対策を考え、発明し、あたかも自然をコントロールできるという不遜さまで突き進んできたように思います。しかし、自然の力はまだまだ人間の遠く及ぶところではないと考えるべきではないかと思います。

イタリアで苦闘している方々には申し訳ないのですが、ヴェネツィアの海が美しく真っ青になった風景が新聞に載ったのを見ました。世界中、人間の外出自粛が長く続くと、世界は美しくなるのでしょうか?新型コロナは、日々の生活のみならず、政治や企業にまで見直しを迫っているのではないでしょうか。そして、終息宣言が出る日が来た暁には、世界はどのようになっているのでしょうか?

アウシュビッツから生還したプリーモ・レーヴィが、ロシア軍によって解放された時には、全く歓喜など無く、むしろ恥辱が残ったと「溺れるものと救われるもの」の中に書いています。また、あれほどの極悪非道の環境のアウシュビッツの中での自死は少なく、解放された後の自死が多い、ということも書いています。彼もまた「溺れるものと救われるもの」を書いた翌年、自死しています。新型コロナのいない世界を、歓喜で迎えることはないに違いないと、私は予感しています。

新型コロナによって倒れられた方々には、深い哀悼の想いを持っています。数ではないひとりひとりの人生が、そこにあるからです。いつか、新型コロナのいない世界がやって来るに違いありません。それは近い将来か遠い将来かは分かりません。その時、私たちはどのようになっているのでしょうか?「全員団結して新型コロナに克とう」などというかけ声は聞きたくありません。それは多分、新型コロナがいなくなった後の世界が、今と全く変わらない地続きの世界だと想像できるからです。大きな困難に違いないのですが、今この時、私たちの見る目や感ずる心を変えていかなければならないと思っています。そして、それはコロナと一緒にいる間に行われるべきだと思うのです。世界が変わることが求められていると、今、思うからです。