父について

父について
私の父親について、小さいときの記憶がありません。小学校に入ったら、そこの小学校の教師をしていたのです。あだ名が「ごりら」だと知ったのは学校に入ってからです。体型や顔貌がどことなく類人猿に似ていたからだと思われます。私もその遺伝子を受け継いだと思っています。父は私が小学4年生になる時に移動していきました。それまでの父は、けっこうな遊び人で、他の家でなかなかやらなかったこと(ストーブ、テーブルなど)を家に導入し、けっこう喜んでおりました。いろり、こたつが主流だった当時の家の暖をとる形に、薪ストーブを入れたのです。また、食事はお膳が主流だった時に、自分で作った丸いテーブルでの食事になりました。また、映画やパチンコ(当時、村にも映画館やパチンコ店がありました。残念ながら食堂はありませんでした。)もやっていたようです。

私は父にあまり叱られたりしたことはなかったのですが、一つだけ強力に記憶に残っていることがあります。私が小学1年生の時、小学校の高学年を中心とした万引き集団が作られ、私も入りました(自分から入ったのか誘われたのかはよく覚えていません。)。村にある小さな3軒ほどの駄菓子屋を標的にして行われました。ある時一網打尽につかまったのです。父としてみれば、同じ学校の教師である自分の息子がその中に入っていたのはショックだったと思います。毎晩のように我が家に万引き集団の保護者が集まり、いくら盗ったかとか、弁償のこと、どうやって謝るか等の話し合いだったようでした。 ある日、保護者たちが私たちを連れて、その店に謝りにいきました。みんな並び、父は家の真ん中のいろりのそばに座っていました。一人ずつ謝るのです。私の右となりの小学3年生が最初に謝り始めました。しかし、その声が絞り出すような声になっていたのです。私は思わずプッと吹き出してしまったのです(本当に不謹慎きわまりなかったのです。)。その次の瞬間、父はいろりにあった鉄の火箸で、私の手を思いっきり(のように感じました)たたいたのです。私はあまりの痛さに泣きました。泣きながら謝ったのです。その後、その時の父の怒りと父の恥ずかしさが、その火箸に込められたのだと思うようになりました。それ以降、私はそうしたことに手を染めたことはありません。学生時代にいろいろな人に遊び半分だとは思うのですが、万引きの話を聞いたりしましたが、私は全く出来ませんでした。そうして生きてきた自分は、父の想いが込められたあの火箸に感謝しています。その火箸がなくても多くの人は万引きなどしないと思うのですが……。その後、父が亡くなるまで、一緒に飲んだ時でも一度もそのことについて聞いたことはありません。父も何にも語らず逝ってしまいました。

父は、私が小学4年生の時から他の学校に移動(39歳でしたが教頭として赴任)した時から、父の生活はがらりと変わりました。ほとんど学校に入り浸りで、「ことば」の教育に心血を注いだようです。遠藤熊吉先生が、郷里に「ことば」の教育を導入し、「共通語教育」として実践されたものを、その後輩の先生方が育てていたのでした。その学校(西成瀬小学校=父が亡くなった年に廃校となりました。)に移動し恐るべき感化を受け、父の生涯の原点となったのです。しかし、文部省や教育委員会との軋轢(文部省があまり推奨しない学校の教科書を使ったりした。)などの中で、その後、万年教頭で退職まで過ごしました。私は父に「それは勲章(変ですが)でしょう。」とよく言ったものです。
父はガリ版きり(もう死語となりましたが)が上手(書道の先生でもありましたので)で、学校便りをガリきりで退職するまで続けました。その学校便りをまとめ、自分が亡くなる数ヶ月前に出版しました。そこには当時の学校の状況が本当にリアルに表されています。「野の学校の歩み」です。子どもたちの作文やら学校の状況など、また教育の内容などもつぶさに感じられるものとなっています。
母は、長期入院していた病院で見舞いにいった私を屋上に連れ出し、「あまり父さんに心配かけるな」と言ったのを覚えています。ちょうど、私の沖縄行きが決まっていて(結局は行かなかったのですが)そのことを言ったのだと思います。その年の12月に母は亡くなり(51才)、心配だけさせてしまった思いがあります。父は老いてからよく一緒に飲む機会や、一緒に旅する機会もあり、それなりに父の喜ぶ顔が見られたと思っています。
父の生涯は多くのことがあったに違いないのですが、一本の筋が通っていたのではないかと思っています。