母親のこと

私の母親は51才で肺化膿症という病気で亡くなりました。昭和46年(1971年)のことです。母親は小さい時に実の母親の妹(それも腹違いの妹)のところにもらわれて育てられました。秋田県の県南の小さな山村でした。母は小さい時から医学を学びたいと思っていたようですが、かわいがってくれた養父に「女が医者になるものではない」と叱られ、やむなく看護婦(看護師)、産婆(助産師)、保健師の資格を東京で学んでとりました。こうした養父の考えは当時の社会の通念(差別)を、それも東北の奥深い山村の通念を言ったに過ぎなかったのでしょう。しかし、母はその後、その山村に帰り、小さな診療所が一つしかない村で、おおよそ医療の仕事をし続けました。産婆として保健師として、赤ちゃんが生まれそうだと使いがくると、歩いてかなり遠くまで出かけ、もう3日は家をあけるのが常でした。40才を越えてから自転車乗りに挑戦し、それで産婆の仕事をこなしていたのを覚えています。亡くなった時、450人の赤ちゃんを取り上げたカルテが残されておりました。医学に対する尊敬と医師に対する尊敬の思いは、亡くなるまで持っていたと思います。小さい時から書物が好きで、中原中也や石川啄木など、小説もまた読んでいたようです。中原中也の詩を読んでくれたこともありました。石川啄木の「函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢車の花」は母の一番の好きな歌だとも聞いたことがあります。私たち自分の子どもに対する思い(何かになってもらいたい)についてはついぞ聞いた事がありません。母は私がまだ若く26才の時に逝きましたので、いろいろな話(医学や文学などの)をした記憶があまりありません。しかし、いつだったか遠藤周作の「沈黙」を母に読ませたとき、母は十文字というバス停を乗り越し湯沢まで行ってしまったことがありました。読みから離れられなかったと聞きました。時々、母が、今生きていたらどんな話をするだろうと、考えることがあります。母の思いからずれていない人生であることを願うばかりです。20180501

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