長い時間が過ぎました

長い時間が過ぎたように思います。またそれはあっという間のようでもあります。私は、来年の10月をむかえると、この職場に入り50年の時を迎えます。来年50年を迎える前に、現場は辞させてもらおうと思っておりますが、最近、自分のこれまでの仕事を考える時がよくあります。自分の生い立ちと重ね合わせて考えてしまいます。この機会に少し自分の生い立ちと両親について書いてみたいと思います。

母について

私の生まれた村は、秋田県雄勝郡東成瀬村田子内字滝ノ沢下村というところです。母は戦争から帰った父と結婚し、私を産みました。母は、戦争前から東京に看護師の勉強に出かけ、戦争が激しくなる前に看護婦(師)・保健婦(師)・助産婦(師)資格を取り、帰郷し、主に助産婦(村では産婆と言っておりましたが)をしておりました。母は貰われっ子で、子どものいなかった義理の祖父母(私からみて)に、ずいぶん可愛がられたと聞いています。しかし、母がある時その義父に「医者になりたい。」と告げたところ「女が医者などになるものでない。」と拒絶され、看護師だったらということで、看護師の道を選んだと言っていたのを覚えています。明治25年生まれの祖父、圧倒的な東北の山村の生まれで、三反農業の祖父に、当時の通念的考えの変更を求めても無理だったのではと思っています。それでも医学に関わる仕事を求めた母は、尊敬に値すると思っていました。母は、東京のいまも吉祥寺駅前に残っている水口医院で見習い看護婦から始め、千葉で試験を受け合格したとのことです。

村にはおおよそ集落群の中心(肴沢地区)に一つだけの診療所がありましたが、車もない時代、救急の患者さんの家族はよく家に駆け込んできました。診療所の医師とは連絡を取り合っていたのだと思いますが、現代から見ると不正医療行為だったのはないかなどと思ってしまいます。それでもうちに駆け込んでくるということは頼りにされていたのではと思っています。お産などがあったときは、ほとんど徒歩で向かうため、3日ほど帰らないことはザラでした。祖母が元気なうちは特に問題がなかったのですが、私が小学1年生の時に脳溢血となり、一度はほとんど回復したのですが、2度、3度と繰り返し次第に症状も重くなって行きました。そうなると、お産の手伝いに出かけた母のいない家は何ともご飯のおいしくない献立に参った記憶があります。

母は私の進路に対して医療への道のことなど一度も話したことがありません。私の能力がわかっていたのかもしれません。ただ私は母の仕事を間近で見ながら、こうした仕事は決してやりたくないと思っていたことは確かでした。そういう意味では、漫然と子ども時代を送ったと言えると思います。「医師」という方々への母の尊敬の念は終生変わりありませんでした。

母は文学も好きで、自分の好きな作家や、詩人のことをよく私に話して聞かせてくれました。与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」、石川啄木、中原中也の「汚れっちまった悲しみに」など読んで聞かせてくれました。それらは私の手には負えなかったのですが、話し相手のいない対象として私が選ばれたのではと思っています。そのおかげかどうか分かりません、若き頃、中原中也などはよく読みました。母の一番好きな短歌は石川啄木の「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」は今でも諳んじることができるほどです。その後母は、地方の小都市の総合病院に勤めていましたが、私の順調でない人生を心配しながら52才で亡くなりました。肺化膿症という病気でした。自分を育ててくれ、既に亡くなっていた義父の元に行く、という日記を残しておりました。

父について

父は、同じ村の私が入った小学校の教師でした。「ゴリラ」というあだ名がついていたのは、学校に入ってから知りました。後に私のあだ名は「ゴリラのこっこ(子ども)」になりました。私は父が同じ学校にいるのが嫌で嫌でたまりませんでした。そうした中、小学3年生の終了とともに他の学校に赴任して行きました。その後の父の変わりようには子ども心に驚いたものです。村の小学校にいた時は、結構遊び人で、パチンコをしたり、家具を作ったり、当時珍しかった自転車を買ったりと、好きなことを勝手気ままにやっていた印象だったのですが、学校が変わった(西成瀬小学校=共通語教育)ら、人も変わったように、夏休み・冬休み全くないほど学校にのめり込んでいったのです。しかし、西成瀬小学校に39歳の時、教頭で赴任したのですが、結局退職まで、万年教頭で終わりました。これは学歴もなかったことや、西成瀬小学校の教育が、文部省が推薦しない教科書を使ったりしたことも理由だったのではなかったかと思っています。私はそれこそ勲章でしょう、と言ったこともあります。私の進路に指図らしきことを言ったことは一度もありません。秋田大学に入る時、私は少し駄々をこねたのですが「教師だっていいじゃないか。」と言ったのが唯一の言葉でした。私が大学で大学を相手の運動に参加していたときに、父が大学に呼び出されたこともありました。他にも呼び出された父親がいましたが、ほとんどが拒否したようでしたが、私は組織と関わりなかったので、父に任せたままにしました。父は深く考えることもなく、呼び出されたために、大学にやってきただけと思います。様々なことを言われたとのことですが、「息子には息子の考えがあると思う。」と答えたとのことです。私はその後、大学に行かなくなり、学生たちの大きな運動の後、あちこちで働くようになりました。そんな中、沖縄行きの話が出ました。母が入院していた病院の屋上で、「あまり父さんに心配かけるなよ」と言われ、それが母との最後のやりとりになりました。結局沖縄には行かず、母が亡くなった次の年、現在の職場に拾われたのです。

父は教職退職後、保育所の園長になり、保育所協議会で頑張ったようです。保育は、私が勤めた職場とは大いに関係が深く、その後よく話ができました。父は自分の持っている能力、絵画、書道、ガリきりなど、またタイプを購入し必死に園通信などを打っていたのを覚えています。結構楽しかったようです。最後には、勤めた小学校教員時代にガリきりの学校通信を出したものをまとめ、「野の学校の記録」として出版しました。父は「これをまとめたら自分は死ぬんではないか。」と言っていたその言葉の通り、出版後、間もなく腹部大動脈瘤破裂で亡くなりました。83歳でした。

こうした自分の来歴を考えながら、自分の仕事をみてみると、両親の仕事であった医療や教育という世界を無意識のうちに感じてきたのかもしれません。私を拾ってくれた片桐格先生は、私にアメリカで見てきた医療と教育(保育)の連携を熱心に語ってくれました。片桐格先生は、その話をする時には遠くを見るような眼差しでした。その時からは、いつの間にか50年という歳月が過ぎようとしています。医療と保育、医療と発達支援、医療と教育、それらの統合・連携という、まさしくそうした時代が日本においても身近になったのです。

最近、無性に祖父(兵吉)祖母(トミノ)、そして父(岩雄)母(キサ)に会いたいと思うようになりました。叶わぬ夢であることは知っているのですが。  2021年11月29日