・・・乱読
新型コロナ感染拡大の中、感染には注意していても、完璧はないので、自分がいつか感染しても仕方ないと思ってきました。しかし、新型コロナの職場内陽性が出た場合のBCP(Business Continuity Plan)の作成を通して、陽性者が出た場合の大変さについては思い知らされました。さらに考えると、その場合こそ、本来的な人のつながりを再確認しながら取り組まなければならにと強く感じさせられました。
こうした中、佐高信の「時代を撃つノンフィクション100」という本に出会いました。私は昔からノンフィクションが好きで思わず手に取ったのです。その中に、ノンフィクション100には選ばれていないのですが、「火花 北条民雄の生涯」高山文彦 について書かれており、手に入れ読み、激しく心を打たれました。北条民雄の「いのちの初夜」の名前は知っていたのですが、私の無知ゆえ、北条民雄の何たるかも知らず、題名から全く手に取らないできたのが正直なところでした。この「火花」を読み、北条民雄の「いのちの初夜」を読みました。癩(ハンセン氏病)者として「癩者収容所」に入ったその夜、人間ではなくなる、癩者として生きるという初夜だったのです。高山文彦の「火花」によって初めて北条民雄を知ったと言って過言ではありません。
高山文彦つながりで「エレクトラ 中上健次の生涯」も読ませてもらいました。その出生が「部落」という日本社会の差別された地であったこと、様々な葛藤の中で、それを小説によって昇華していく姿が心を打ちます。私が強く尊敬している歌手の友川カズキが、中上健次と出会っています(「友川カズキ独白録 七二時間 中上健次」)。かつて中上健次がまだ存命中に、友川は中上健次にペシャワールに一緒に行こうと誘われている、と私に話してくれたことがありました。当時、文学界で輝きを極めつつあった中上健次に、友川は誘われていたのです。その縁で私は「中上健次全集」買ったのですが、長く書庫に眠っておりました。「エレクトラ」はネットの中古品で購入しました。読み進めていたある日、中から桐野夏生の「エレクトラ」に対する新聞に載った書評の切り取りが挟まっているのに気づきました。そこには桐野夏生の絶賛評があったのです。なぜ、中上健次にとって友川カズキだったのか、なぜペシャワールだったのか、そのことが私の中でおぼろげに形作られたと(あくまでも推測でしかないのですが)思っています。
遠くにいる友人と北条民雄について電話で話し合ったところ、その友人の若き日、北条民雄に惹かれた一時期があったと話してくれました。彼は間もなく「狼煙をみよ」松下竜一 を送ってくれました。私は、単行本「松下竜一その仕事」で持っていたのですが、読んでいなかったのでしょう。これもまた私を撃ち続けました。辺見庸がその大道寺将司の俳句集出版のため渾身の力を傾けたことは知っていました。「鴉の眼」「棺一基」など秀れた句集を世に出してきました。「狼煙を見よ」の中の大道寺将司は生い立ちとして、北海道の釧路で生まれ、そこでのアイヌ民族への差別を日本人として知ったのです。その批判は、獄中闘争として、かつて満州に向かった父にも向けられたのです。病気だった父、そして我が息子である大道寺将司を生命をかけて守り抜こうとした両親の気持ちはいかばかりだったでしょう。大道寺将司は死刑判決を受けたのですが、獄中で病死しました。
この三人を思う時、日本の中の差別の根深さを考えさせられてしまいます。
つい最近、在日韓国人(朝鮮人)で初めて日本の国立大学の教授になった姜徳相の死亡広告を見ました。「関東大震災」「朝鮮独立運動の群像」という著作があるとのことを知り買い求め、読む中で大きな衝撃を受けました。
「関東大震災」では、在日していた朝鮮人の数と殺戮された朝鮮人のできうる限りの資料からの状況把握を行い、その殺戮の原因となった根源的デマが、誰がなぜ流したのかという問いに迫ろうとしています。軍隊、官憲、自警団、一般人による皆殺しと言っていいほどの、何の根拠も無き「鮮人」(朝鮮人に対する差別用語)狩りが続き、やがて自警団等の暴走が起き、そこで初めて「保護」を掲げた日本政府、多分あれほどの速度で広まった「鮮人暴挙(井戸に毒を投げ込んだ、放火した等々)」のデマは、政府権力抜きには考えられないとし、自警団等の暴走が権力に向かうのではと懸念し「鮮人保護」「自警団抑止」へと方針が変わっていったのではと、多くの資料より推測しています。関東一円での朝鮮人死者の数は正確にはわかっていないのですが、資料によれば6千人に及ぶのではと書かれています。
「朝鮮独立運動の群像」には衝撃的な写真が載っています。自分たちの農地などが無断で没収された朝鮮の人たちが抗議の戦いをし、つかまり処刑された写真です。姜徳相は、さらにその写真が「朝鮮民俗風景絵はがき」として日本の一般の家々に配られた事実を知り、日本人の人間としての美意識に疑問を投げかけています。民族差別は在日として長くさらされてきた朝鮮の人々に今なお影を落としていると思います。アウシュビッツに収容されながら生還したイタリアのユダヤ人プリーモ・レーヴィは戦後、「ドイツ人とは?」という問いを投げかけています。朝鮮の人々と在日の朝鮮の人々もまた、「日本人とは?」の問いを投げかけているのではないでしょうか。
最近出版された本で、松田優作の妻だった松田美智子の「仁義なき戦い 菅原文太伝」を読みました。私は2014年の沖縄知事選に立った翁長雄志の応援演説をした菅原文太をYouTubeで見ました。
私は若い時に優れたアジテーションを聞いたことがあります。立てこもった東大安田講堂占拠(1964年1月18日19日)の応援のため、神田カルチェラタンという闘争が繰り広げられました。御茶ノ水近くの大学の講堂(東京の地理等不明でどこの大学だったか失念してしまいました。)で逮捕状の出ていた山本義隆が登壇し、アジテーションをしたのです。彼は物理学の学者として将来が有望視されていたにもかかわらず、東大闘争の東大全共闘議長として、自分の人生を賭け(それは学問の道を断念することでした。)、運動に身を投じたのでした。その時のアジテーションは、組織とは別の次元での個の表出だったと思います。圧倒的な若いエネルギーの輪の中で私は、彼のアジテーションの中にそうした静かな決意を感じたのでした。山本義隆はその後、長く予備校の先生を続けながら、多くの著作を著し、その中の「磁力と重力の発見」は第1回パピルス賞、第57回毎日出版文化賞、第30回大佛次郎賞を受賞しました。あくなき学問への想いを感じさせてくれました。
翁長知事を応援した菅原文太のアジテーションは、選挙応援演説をはるかに超えたレベルでした。山本義隆のアジテーションを私は思い出しておりました。菅原文太はその1ヶ月後に亡くなりました。沖縄まで出かけ、多くの聴衆の前で語る、いかに大変なことだったのか、本人のみぞ知ることではなかったかと思います。沖縄もまた日本という国家の中であらゆる差別的な扱いを受け、今なお国家の論理の犠牲に立たされ続けています。それと闘うとした翁長知事への熱いメッセージだけではなく、このアジテーションの中には未来的な多くのことが含まれていると私は感じ、あの「仁義なき戦い」で見た菅原文太がなぜここに立っているのか、ずっと心に引っかかっておりました。そうした時の「仁義なき戦い 菅原文太伝」だったのです。あの「仁義なき戦い」の映画の背後に山のような菅原文太の世界があったこと、そしてそれがあの沖縄でのアジテーションにつながったことに納得させられました。
あてどない乱読ですが、私自身、生き急いでいる感じでもあります。