ワンちゃんと地球

ワンちゃんを飼ってから、現在は7代目になりました。秋田犬、雑種、シェパードなどです。どの犬も可愛かったのですが、飼い方について私の方が未熟で、多くのワンちゃんに苦労をかけたと思っています。最初の5代目までは、外犬で、犬たちの気持はほとんどわからなかったように思います。6代目、7代目と内犬として飼ったところ、ワンちゃんの気持が少しはわかったような気がしました。でも、外犬であっても、その運命を受けとめ、当たり前のように暮らしたのでは、と考えています。そのことがまた私の胸を締めつけます。どのような環境でも当たり前のように受け止めざるを得ず、そのことに殉じているように見えるワンちゃん達のけなげさ(秋田弁ではムゾ=無慙)に心打たれます。

6代目は、大変よその人に友好的で、子どもたちと遊ばせてもほとんど心配はありませんでした。7代目はよその人への警戒心、吠えかかりがすごく、「猛犬」「狂犬」と呼ばれてもおかしくない程で、同じ飼い主なのにと思ってしまいます。考えてみると、それぞれの個性が出てしまうような飼い方、すなわち野放し状態の飼い方なのかと、反省しきりですが、なんともしょうがないという感じでいます。

特に最近、ワンちゃんを飼いながら思うことがあります。生き物という概念です。野生の中で生きていくには、多くの生き物たちは大変と思います。何よりも人間という生き物の強大さ、多さに圧倒されているのではないでしょうか。直接の捕獲、殺害もさることながら、人間の出す廃棄物、CO2などによる温暖化等の被害は、多くの人間以外の生き物を絶滅に追いやってしまいました。また科学や医学の進歩により、かつては大きな人口減少につながった疫病や災害ですら、今や到底人口減少につながらないほどになっています。かつての海洋は、生命の宝庫として、また生命進化の宝庫としてありましたが、今や人間の食料の宝庫としてしか位置付けられていないかのようです。また大型農業が自然に与えた影響を言っておられる方もおります。私自身も肉を食べたり、魚を食べたり、美味しいお米などと罪深いことをしているのですが。こうした恩恵をしっかり受けていているのに、と考えてしまうのですが、何かやり方はないのだろうかということです。

今回のコロナ禍で、世界のCO2排出量が圧倒的に減り、世界の観光地が美しくなったのを見て、「やればできるじゃん」という声も聞こえてきています。人間は何者かに突き動かされないとできないのでしょうか。世界中の人が日本人と同じ生活スタイルをすると、2.8個分の地球が必要ということのようです(エコロジカル・フット・プレートというそうですが。)。私たちの生活はそれほど肥大化しているのでしょう。ちなみにアメリカは地球5個分、中国は2.2個分、インドは0.7個分、世界全体では1.7個分とのことです。0.7個分はすでに地球を超えた分なのです。それも偏った使い方になっていると想像されます。

私たちはどこへ行くのでしょうか。コロナ禍のような大きな災害のようなものの中でしか、人間の活動を抑えることができないとは、現在の社会の構造自体に問題があるのかもしれません。しかし、地球の生命体総体やCO2排出量、温暖化防止、廃棄物等すべてを含めた社会構造の模索は、たぶん始まったばかりと思います。その大きな足かせになっているのは、何よりも人間を使っている「資本」ではないでしょうか。自己増殖をその出生の時から無機的に求め、人間をその道具としている「資本」への切り込みが求められるのは確かなように思います。「生産重視」の価値観(そのように「資本」によって思い込まされてきた)も変えていく手立てを私たちは持たなければならないと、私は強く思っています。

ワンチャンから始まり、生き物の行く末を考えた時、そしてその生命が生きている地球を考えた時、新たな世界観とそのシステムを構築していくことは必須のように思われます。まさしく、人間の本当の叡智が試されているのではないでしょうか。