祖父について
祖父とは、実際の血はつながっていなかった(祖父母には子どもができず、祖母の姉の子を養子にし、それが私の母でした。私の母が小さかった時,遊びにつれていったいったところ、祖父から離れようとしなかったためとのことです。)のですが、私を大変可愛がってくれました。祖父は無口で、曲がったことが嫌いで、タバコ・バクチなどを嫌っておりました。私なども変なことをして、祖父に何度かぶっ飛ばされたことがあります。祖父は根っからのお百姓さんで、小さな田んぼ(3反3畝)と広くない畑を慈しむように耕し、作物をこしらえておりました。祖父と一緒に畑まで肥え桶(糞尿)を担いでいったこともあります。その重さは半端でありませんでした。米作りは私の父の力も借りたと思うのですが、いい米を我が家で食べる分と少しの供出分を作っておりました。長芋の作り方も一級で全く傷をつけずに掘り出し、自慢の一つだったようです。秋には、きのこを取りに山に出かけ、巨大な鳶ダケをよくとってきたり、その時出会ったまむしなども家の中で乾燥させてもおりました。祖父はその場所を誰にも教えず亡くなりました。(これは村のきのこ取りの慣習です。)祖父は無類の酒好きで、祖母は料理と酒造りの名手でした。そうした意味では、祖父は幸せだったのではないでしょうか。
祖父は明治25年産まれで、名前は兵吉(ひょうきち)で、明治時代に産まれたことを色濃く残していたと思います。若い時、朝鮮出兵で朝鮮に渡ったのですが、「蛮族から朝鮮の人たちを守った。」と、当時の国家の言い分をそのままに考えていたようです。教師だった父が村の学校から転勤し、町の小学校に移ったのを契機に、昭和40年(1965年)に町に引っ越しました。祖父の田畑の多くは親戚に譲り、残った場所だけ、祖父はバスで通ってわずかな作物を作っておりました。無口で人付き合いもあまりよくなかった(実際は多くの人に好かれていたようです。)祖父ですが、やはり寂しかったようです。それからおよそ6年後に79歳で亡くなりました。祖父の具合が悪いというので、東京(その時は私は東京に住んでいました。)から帰ったのですが、嬉しかったようで、「進、死ぬところだ。」といって、ビールを少し飲みました。それから1ヶ月後くらい後に亡くなりました。その死にも立ち会わず、今でも申し訳ないと思っています。
祖父の兄弟は跡継ぎを残して、皆北海道にわたりました。その中で一人だけ成功し、網走に近い場所でホテルをやっていた甥がおりました。その甥の方が、時々秋田にやってきて祖父と語りあっておりました。その時は、表情の少なかった祖父も嬉しそうでした。残念ながら、祖父を北海道に連れていくことは出来なかったのですが、その後、父が甥御さんと交流し、何度か行き来をしたのは、祖父への供養でもあるのではないでしょうか。そのホテルは甥の方が亡くなった後に閉鎖し、甥の子どもさんたちは札幌で暮らしております。甥の子どもさんたちは、人がうらやむほど仲良しでしたが、長男が昨年亡くなり(私と同い年でした。)、家族、姉妹は悲嘆にくれておりますが、家族の結びつきの素晴らしさを教えてくれました。祖父の係累は、今もしっかりと北海道に根を張って暮らしております。
祖父の人生については知っていることは少ないのですが、生を受け、亡くなっていく人間の生業(なりわい)のようなものを教えてくれたと思っています。