Category Archives: 理事長ブログ

昨年(2018)12月から新学期(2019)4月を迎えて

昨年12月から今年4月まで、あまりの忙しさにブログを更新できませんでした。お詫びいたします。

昨年、2018年12月に社会福祉法人グリーンローズ公益事業として診療所が「オリブ園こども発達クリニック」として開院しました。この事業の認可及び開院のための増築などを含めて、おおよそ2年8ヶ月の時間を費やしました。新しい試みであるため、県の方々の多くのご尽力がありました。この試みの目標を大きく挙げますと、①心配のある子どもさんやその保護者がすみやかに支援を受けられるようにということ(保護者の方々ができるだけワンストップ〈=複数の用事を1ヶ所で済ませられること〉で支援を受けられるように)、②支援のある場所で医療と支援が連携すること、③支援を必要とする子どもさんの医療受診の困難さを軽減すること、などです。これが軌道に乗るまでは時間が必要と思っています。この4ヶ月の間少しずつ患者さんの数も増えてきています。「連携」ということばは便利なことばですが、曖昧です。どのような連携が必要かまだ未知のこともあります。新しい試みのため、私たちも手探りではあります。週1回は医療と支援部・相談部との合同会議を開いています。子どもさんとご家族の最善の利益を求めて今後も努めていきたいと思っております。

2019年3月には、30名の卒園児を送りました。卒園式は16名の参加で、しっかりと卒園証書を受け取りました。その後のお楽しみ会も楽しいものになりました。元気に学校に通ってもらいたいと願っております。

新学期を迎えました。在籍102名からの開始です。元気に子育てできるよう、子どもたちが楽しんで参加できるよう、職員一同努めるつもりです。

診療所開設について

かつて(昭和39年1964年)片桐格先生が渡米し、そこで支援と医療の密接な連携の姿を見て、日本が大きく立ち後れていることなど、大きな示唆を受けてきたことは、当時についての沿革に書かれています。そうした中で、私は片桐格先生の渡米にまつわる様々なお話を聞き、グリーンローズに引き入れてもらいました。

子どもたちとともに歩む中に、学生のボランティアの方々が多く訪れてくれました。

その中に医学部の学生もおられ、やがて医師となって社会に出、その後も交流を続け、友人となった方もおります。確かに社会は開かれ、医療も身近になったと思います。しかし、支援・教育と医療の密接な連携とはどのようなことなのかについて明らかにしてくれているところはほとんどないといって過言ではないと思います。これから支援・教育と医療の連携は具体的に求められていると思います。

現在、社会的に見ると、「発達障害」といわれる子どもたちの増加が声高に言われています。しかし、支援までの行程はけっこう煩雑さがみられます。また、専門医療機関は「待ち」が長く「3ヶ月待ち」などと言われています。子どもはあっという間にその時を成長していきます。速やかな相談・支援は必須であると痛感しています。そのことに少しでも資することができればと願っています。

長い行程を経て、今、オリブ園内診療所を公益事業として行うことが認可されました。

これは画期的なことであり、行政他多くの方々の理解の賜物と考えています。

弱小の法人ではありますが、やらなければならないこと、やるに値することのために踏ん張ることは、民間の力だと考えています。どのような姿になるかはまだ未知の部分が多くあります。それ故にこそ挑戦する意味があると思っています。

それ以前にお知らせするつもりでおりますが、開院は平成30年12月1日を予定しております。

今年の災害について

2018年、平成30年の自然を考えた時、豪雪、猛暑、豪雨、暴風があり、台風や気候の大きな変動が感じられました。さらに地震は島根、大阪、北海道と立て続けという感じでした。草津白根山噴火もあり、日本はまさしく災害にまみれたと言っていいのではないでしょうか。

災害に遭われ、亡くなられた方々には心からお悔やみを申し上げ、被災された方々には心からお見舞い申し上げます。

かつても大型台風や地震が訪れ、多くの災害となりました。しかしその後、各地のインフラがすすみ、少しばかりの自然の脅威は去ったかのように見えました。そのような中、2011年平成23年東日本大震災が起き、人間のインフラの貧しさ、自然の脅威のすごさとともに、人間の作ったものによっての災害までを見せつけられました。私はこれまで秋田という地域にいたためかもしれませんが、気候、気温等々余りに人間に都合良く出来すぎているのではないかと考えてきました。人間が気候、気温等々に合わせて家屋やインフラを作ってきたせいかもしれません。しかし、吹き飛ばされるような風が吹いても、やけどをするような気温になっても、地上が海に沈むような地形変動がきても、本当はおかしくないのではと、いつからか思うようになりました。それが、私の妄想であることを願うのですが、この間の自然を見ると妄想とばかりいえないような気持になっています。

私たちはどのように対応したらいいのでしょうか。地震は地球の吐息やあくびのようなもので、しかたないかもしれず、その生きている地球を認識することが大切のように思います。また気候等の原因が、長い時間をかけた人間による地球の破壊も一因だとすれば、取り返しのつかない地点はどこなのでしょうか。もうそこまで来ているのでしょうか。取り返しが出来るとしたら何をすればいいのでしょうか。重い課題が科せられているとしか言えないように思います。人間はこの課題を解決できるのでしょうか。

私たちが生きている限り、こうした災害や気候の変動に弱いながらも対応し、原因となることに関わっているとすれば、それを速やかに取り除く努力はしていかなければいけないと考えています。大きな課題を残していかざるを得ないことは、私たち人間の無知に由来するのではと考えさせられてしまいます。

母親のこと

私の母親は51才で肺化膿症という病気で亡くなりました。昭和46年(1971年)のことです。母親は小さい時に実の母親の妹(それも腹違いの妹)のところにもらわれて育てられました。秋田県の県南の小さな山村でした。母は小さい時から医学を学びたいと思っていたようですが、かわいがってくれた養父に「女が医者になるものではない」と叱られ、やむなく看護婦(看護師)、産婆(助産師)、保健師の資格を東京で学んでとりました。こうした養父の考えは当時の社会の通念(差別)を、それも東北の奥深い山村の通念を言ったに過ぎなかったのでしょう。しかし、母はその後、その山村に帰り、小さな診療所が一つしかない村で、おおよそ医療の仕事をし続けました。産婆として保健師として、赤ちゃんが生まれそうだと使いがくると、歩いてかなり遠くまで出かけ、もう3日は家をあけるのが常でした。40才を越えてから自転車乗りに挑戦し、それで産婆の仕事をこなしていたのを覚えています。亡くなった時、450人の赤ちゃんを取り上げたカルテが残されておりました。医学に対する尊敬と医師に対する尊敬の思いは、亡くなるまで持っていたと思います。小さい時から書物が好きで、中原中也や石川啄木など、小説もまた読んでいたようです。中原中也の詩を読んでくれたこともありました。石川啄木の「函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢車の花」は母の一番の好きな歌だとも聞いたことがあります。私たち自分の子どもに対する思い(何かになってもらいたい)についてはついぞ聞いた事がありません。母は私がまだ若く26才の時に逝きましたので、いろいろな話(医学や文学などの)をした記憶があまりありません。しかし、いつだったか遠藤周作の「沈黙」を母に読ませたとき、母は十文字というバス停を乗り越し湯沢まで行ってしまったことがありました。読みから離れられなかったと聞きました。時々、母が、今生きていたらどんな話をするだろうと、考えることがあります。母の思いからずれていない人生であることを願うばかりです。20180501